EXPERIENCE体験談
遠のく運命
2023.01.13
子供のころ、兄弟の虚弱体質のために、私一人、母たちと離れて暮らさなければなりませんでした。
兄弟は父母と、私は祖父母と暮らしていたのです。本当は甘えたい年頃なのに、母と一緒にいられない不安と悲しさを押し殺して、聞き分けのいい自分を両親と祖父祖母に見せながら生きてきたんです。
そこには何の楽しみもなく、小学生の頃の私は、友達と話していても、何かして誰かと一緒にいても、面白いと感じることは一つもありませんでした。
そのまま大人になったある日、私の心に穴が開いていることに気づきました。
穴は、私を無表情にさせます。
感情も奪います。
過去、楽しかった記憶なんてどこにもないはずなのに、穴は本来培ったであろう安らかな感情さえも飲み込もうとしていました。
だけど、十数年後にカウンセリングを受けることによって、過去の母の言葉が、私の胸の穴を埋めることになったのです。
「あんたにも行きたい東京に行かせてあげられたのに・・・帰ってくるなんて」
当時、兄弟が東京の専門学校に行くために、東京で一人暮らしをしていたのですが、1年もせず実家に帰ってきてしまったのです。
母は私が東京で学びたいと思っていることを知っていたのでした。兄弟が東京にいるうちに、私も同じ部屋に住めば東京に行かせてやれると考えていたようでした。
でも聞き分けの言い私は、決して自分から行きたいところに行きたいと宣言することはできません。ずっとそうやって兄弟を、母を優先して生きてきたのですから、私が思っていることを表面に出すことは許されなかったのです。
それなのに、母は私の気持ちを知っていた。母の心に、少しでも私という存在があったことが知れたことで、私の心の穴は埋まってゆく感覚がしたのです。
それは、父が家一軒分のお金を一瞬で使い果たしたという事実があったとしても、胸に、温かさという形で残り続けました。
母の心が知れてよかった。
自分はいてもいい存在であると理解できた瞬間でした。
そんな私が、セラピーでたどり着いた先は、感情を忘れてしまった小さな女の子の部屋でした。
女の子は5歳くらいで、表情がわかりません…というより顔だけがどうしても見えない。ぼやけているような、顔の前だけに霧が立ち込めているような、見たくても見られない状態なのです。
女の子のいる部屋には、家具がありません。
ただの壁に四角く囲まれただけの、人が暮らしてきた形跡のない、見ていて寂しくなるような部屋です。こんな所に小さな女の子がずっと一人でいたなんて…私は女の子に聞きました。
「あなたはここで、どうやって生活していたの?不便じゃない?私が会いに来てどう思う?」
「不便じゃないよ、だってずっとこういう部屋だったから。私はなにも感じない。考えない。あなたにしてほしいことは、何もないよ…
…感じないというよりは、フタをして見なかったことにしてたの…
…私の顔がぼやけているのは、前からこうだから…
…私は大丈夫だから、かまわないで…」
私は思わずこの子を抱きしめていました。大丈夫なんかじゃない、無理に強がっているだけ。感情がなくなるまで追い詰められていたこの子を強く抱きしめました。
「この子」は「私」が物心つくかつかない頃から、寂しくて不安で、理不尽を感じているのに気持ちを聞いてくれる人が誰もいなくて、どこまで我慢すればいいのかわからないような苦しい生き方を強いられてきたのです。
私の心とこの子の心はリンクしています。
あの時ただ、母親のぬくもりを感じて眠りたかった…。
兄弟は、体が弱かったために親たちがつきっきりで面倒を見なくてはいけないことを、わからなければいけなかったー私がお母さんと一緒にいたいよと懇願しても、仕方ないでしょ、と我慢させられ、それが当たり前になっていきました。我慢するのが当たり前、親には甘えられないのが当たり前、小さかった私だとしてもだ。小さい子も大きい子も大人もおじいちゃんも、みんなが平等に我慢しなければならないのではなく、自分一人だけが我慢しなくてはいけない。
それさえも許されないのだとしたら、感情というものは邪魔なものでしかありませんでした。「寂しさ」を感じるから寂しい自分は泣いてしまうのだ。「不安」を感じるからこれ以上不安になってはいけないのだ。それが感情にフタをした経緯でした。
この子は、感情にフタをしてしまったので、その後、私は感情の出し方を知らないまま生きてゆくことになります。本来なら、兄弟でおもちゃを取り合いして、ここまでやったら泣く、悪かったなと感じて謝る、仲直りして遊ぶ、とか、学校の友達と楽しいことを共有する、ケンカもする、嬉しいや楽しいや怖かった体験なども、自分の口から、感情を伴って吐き出され、表現されるはずでした。
感情の出し方を知らないままなので、親友もできづらい。家族との縁も薄い。恋人にはたんぱくになる。会社では周りの人を理解できず苦しむ…。
そういうつまらない50年でした。
でも今回のことで、過去に、私を東京に行かせてやりたいと言った母の気持ちを思い出すことができた。私には、ただ不安な気持ちをうんうんと聞いてくれる親友という存在がいることに気づくこともできた。会社では、理解に苦しむ人がいても、違う見方をすると認知でき協力する気が芽生えることにもなれた。そもそも私という人間はおしゃべりで、仕事中でもたわいもないことを面白おかしく淡々と周りに言って聞かせる性格だと、初めて自分自身の人間味に気づけたのです。
悪い人生じゃない。
そう思えた時、母が亡くなる時のことが鮮明に記憶によみがえってきました。
母は、私には何もしてやれなかったことが心残りだったようで、病床で最期に、私の願いを聞いてくれた。
”お母さんがあの世に行ったら、3年後に私も一緒に連れて行ってほしいーわかったよ、3年後に迎えに行くね”
だけど、その約束は果たされず、父が逝った。母が亡くなった命日のちょうど3年後の同じ日でした。
せっかく母の近くに行けると思ったのに遠のいた…このことは、わたしが今生でまだやらなくてはいけないことがある、気づきを得るべきだと、まだこの世で勉強しなくてはいけないことがあったことを意味した。
自分自身を認めること。
それができるようになるには、もう少しこの世を生きなくてはいけないらしく。
イメージの中の病床の母は、私を抱きしめて安らかに笑っていたのでした。
お母さん、心配しなくても大丈夫だよ、私は私の人生をもっと楽しむことができる。きっとあの子も笑顔になるだろう。
私がそっちに行ったときは、強くなった私を見てね。面白い話も聞かせてあげるね。