EXPERIENCE体験談

     

離脱A

前世療法

2024.03.11

私はセラピーの中で、自分の意識が今、林の中にあることがわかりました。枯れたツタ、寂しげな赤松、音もなく、私の心には何もかんじられません。

私は日長一日中、みすぼらしい格好で林の中のこの赤松の下にできたウロの中で座っています。何もしていません。

無気力な私は、夜になる前には動き出さないといけなく、私のかすかな生命線を保つ教会へと足を運びます。

18世紀、この頃のロンドンの街は、教会がなければ路頭に迷うことしかできないような魂のない人々が多く暮らしていた。私もそのうちの一人だった。

教会の中には、私のようにみすぼらしい格好の者もいれば、普段通りに祈りを捧げにやってくるものもいる。私は教会から乾いたパンをもらうためにやってきているのだ。

食べ物を恵んでもらう手前、祈りなさいと言われれば、私もそうせざるを得ない。ふと、隣を見る。隣の者は熱心に眉間にしわを寄せて祈っている。逆隣の者は、涙を流して祈っている。ここに来る者たちはみな、必死に神にすがる思いなのだ。私も彼らにならうように目をつぶって同じようにそうした。

私はまだ少年だった。15歳から16歳くらいの。家はなく、あの赤松の林の中に住んでいる。毎日のように、パンを恵んでもらいに教会に行くだけの、何も感じていない人間であった。

祈りの中で、家族といた時の記憶が蘇ってきた。

穏やかの日差しの中で、いつもの家路の階段を、母親と二人で手をつないで歩いている。

あたたかな母の手の感触、疑う余地のない安堵感。

この頃は確かに家族と一緒にいて、愛されて生きていた。

変わったのは、6才のころだった。

夜の空を真っ赤に染めて燃え盛る、轟々とした炎。顔が熱い。私は、地面に手とヒザをついて座り、ありえない光景をただ茫然と見ていた。この時、この業火によって大好きな母を亡くし、私という少年は一人きりになったのだった。

それからは、何もない、空白の時を過ごすことになる。

住む家はない、身を寄せる親族もいない、普段から気にかけてくれそうな近所のお年寄りもいない、そもそも母は誰とも交流することがない人だったため、私は、母以外の人間を知らなかった。燃えた家は赤松の林の林道の先にあり、街と離れて建っていたし、自分と同年代の子たちと接触することもなかった。

そうだ、私たちは母一人子一人だったのだった。父親のような存在はなく、母は一人で私を育て仕事もしていた。

だって、家があったときの記憶は、夜になると母と一緒にいたが、日中は私は家に一人きりで退屈だったから。小さい私にとってはだだっ広く、家具もろくにないその場所は味気のない監獄のようなものだった。母には、外に出てはいけない、と言われていたし、近所に他の人間もいない。来る日も来る日もぼーっと天井を眺めて過ごすことしかできなかったから。

この世に母しか知らなかったのに、その母が、私を置いて行ってしまったのだ。

その後の私にできたことは、日曜に行っていた教会に行くことだけだった。それしかできなかった、知らなかったのだ。他人に助けを求めることも、他人に心を許すことも、人同士のつながりを信じることを、知らなかったのだ。

今、教会で、目をつむり神に祈る。だが、現実はどうだ、神に祈っても何かが変わるわけではないのだ。時間がさかのぼり、母が私を一人きりにすることがないようになるなんてこともなく、今の私が他人に助けを求め自分で生きるすべを知りこれからの人生を変えられるわけでもない。祈っても無駄なんだと、必死にそうしている人々を見てむなしさしか湧かなかった。

そうしてむなしさだけが残ったときに、私は崖の上に立っていた。

何も感じていない、感情もない。寒くもなかった。

そうして、その人生を離脱させた。また、最初からやり直そう、今度は、ちゃんとつないだ母の手を離さないでいよう、とそれだけを心に決めていた。また、この人生のように母一人子一人として生まれて来よう。そして、今度は、自分が教えてあげるんだ。人と人のつながりのすばらしさを。大好きな母に。

                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   
                   

私は今、海の水面から顔だけを出している。天気のいい夏の気温。岸には見覚えのある昔の民家。よくある、日本の海岸沿いの郷愁を感じる風景だった。ここは、現在の私の祖父母の家だ。セラピーを受けて、貧しい人生を送った前世を見た後だ。少し遠くに、少女が見える…一緒に遊んでいたおそらくこの”体”の姉であろう。のんきに砂の城を作っている。私が足をつらせておぼれているというのに。私は声も出している。聞こえているはずだ。だが姉は、事の重大さに気づくこともなく私に目を向けることがない。いつもそうだ。前世では、子一人母一人で生きていくことの難しさを安易に考えていてわが子を死に追いやったし自分も死んでしまった。ここでは、周りに気を向けることがなく、”弟”が危険な状態にあっても自分のことではない、他愛もないものだ、と意識を向けずに私がおぼれてしまっている。だから教えてやりたかったのに。じゃあ、つぎこそは、これではうまくいかないんだということに気づいてもらうから、また親子をやろうね。ポジティブなのもいいけど、危機意識を持つことだよ。誰かを思いやる気持ちも大事だね。