EXPERIENCE体験談

無題

前世療法

2023.02.06

先生、  

あなたのおっしゃることは崇高で気高く、

私が生涯あなたのためにお付きすることに十分な理由を与え、かつ、  

私をひきつける強い魅力をお持ちです。

私は、この人生で、先生だけにお仕えすることに特別に幸せを感じられます。他に何の立場もいりません。

明治初期、地方の小さな庄屋の下で事務方をしていた私に、私の働きが必要だと、強い国を作るのに有能な助手がいるのだと、積極的に私を採用したいと仰せられた。  

国の大きな仕事を任された先生にお仕えすることになるなど、なんて恐れ多いのだろう、だが、反面、天にも上るような気持ちで、私は、自分の才能を認められたことが、素直にうれしかった。  

先生の仕事は会社を作ることであったが、交通の近代化などにも携わり、その手腕は存分に発揮された。一方、生活のこととなると顧みない性格のようで、だらしなかったり自分のことができなかったりと、私が先生をお世話することが、先生の奥様と一緒にあれやこれやと振り回されるといった感じで、まるで大きい子供を相手にしているかのようであり、そんなことでさえ私に楽しみを与えた。

今、先生のおそばに仕え、先生の片腕となって自分の才能を発揮できているこの人生を、誇らしく思っている・・・その時、突然、

私の目の前がまばゆい光に照らされて、真っ白になった。  

すぐに、これまでの人生が遠のいたのがわかった。  

光が戻ってくると、違う景色にいた。  

私が今いる場所は、自分自身が通っていた中学校の教室の中。

 ノスタルジックな世界から急に現代に飛んで、まるでタイムマシーンの映画のよう。  

教室では、新学期にむけて、一年の抱負をそれぞれ決めて発表する場面だった。  

「苦手な教科の復習をする」「部活をがんばる。勉強も頑張る」「困っている人の助けになれる自分になる一年にする」「友情を今まで以上に育む」

教室の中の他のみんなはそれぞれ、恥ずかしそうに一年の抱負を語ってゆく。みんな、学校や勉強にからめた中学生らしい豊富である。  

私の、激しいやる気にあふれた堂々とした一年の抱負は、これまでの穏やかに流れるだけの受動的なものから一転して、教室中に物議を呼んだ。「驀進(ばくしん)する」だったからである。  

男子生徒からは「驀進!」と確認され、教室中は大いに沸いた。  

私は、なぜみんなが笑っているのかわからなかったが、次第に恥ずかしい感情が大きくなってしまった。そのあとに、一年の抱負をこの言葉にした理由を、言わなきゃいけないのに治まらない笑い声の中、私は説明を省いて引っ込んでしまった。  

自分の言うべき言葉を出さなかった。  

その時はそれだけ。  

このシーンでは、ただそれが出てきただけ。      

その次には、もっと子供のころの楽しかったお祭りの屋台をめぐる私、という記憶…金魚すくい、ヨーヨー釣り、綿あめ、フランクフルトなんていう、幸せや楽しみを体中で受け取っていたシーンが出てきた。子供のころは、自分の「心」を、「言葉」を、100%出していて、ためらうことはなかった。  

この頃は、お父さんもお母さんも大好きだった私。  

けど中学生の時に、お父さんが嫌いになった。嫌いというか、馬鹿にしだした。  

お父さんは寡黙でお母さんともそんなにしゃべらない。歯磨きのあとが、洗面台に水しぶきを飛ばしたものを拭き取らず、汚い。あと、臭い。洗濯物にお父さんの靴下が一緒に入っていたら、においが移ってるような気がしてやめてほしかった。

お父さんはお世辞にも頼れる大人という感じではなく、ただいるだけの存在。近所の人はおろか、自分の父母であるおじいちゃんやおばあちゃんともしゃべらない。もちろん、私とだってしゃべらないから、何を考えているのかわからない。そういう人間だった。  

何も言えない人、と馬鹿にしていた。  

中学生のある日、自宅で一人で漫画を読んでいた時だった。  

ここは団地で、建物の古さなのか家賃が安すぎるのが原因か、不良や荒くれものばかりが集まるような場所になっていた。近隣の住民からは、「道南のスラム団地」と恐れられていたほどだ。

    同じ棟に、独身の50代の男が一人で住んでいて、普段から、人に向かって大きな声を出したりごみの分別をしなかったりと、ちょっと難ありの行動をする人がいた。  

その日、お母さんはけがで入院をしていて、お父さんはまだ仕事から帰らない、という時間の中…私の部屋にも響き渡る、ガラスの割れる大きな音がした。  

ベランダから駐車場を見ると、おじさんがお父さんの車の横で何かしている。手には何かの棒。車に少し残ったガラスの破片は棒で執拗に中へと叩かれる。例の50代の独身の男が、お父さんの車の窓を割っていたのだ。  

私はびっくりしてどうすればいいかわからなかった。  

男は何かわめいているようにも聞こえたが、動揺した私の耳には入らなかった。  

その後すぐに、父が男を取り押さえている場面が、遠目に私の目に入ってきた。父はすぐそこにいたようだった。  

すごく怖かった。  

父が男を取り押さえて警察に突き出し、この件は収まった。男は、普段から気がおかしかったようで、実際にそんなことはないのに、父の車の中に自分の猫が入り込んでいると訴えていたらしい。…  

すごく怖かったけど、父がいたことが少し心を軽くした。  

独りきりの時じゃなくてよかった、と心底ほっとした。  

この団地は、スラム化していて夜には不良も出るのだから…。  

お母さんはけがで入院しているし。  

帰ってきたお父さんの顔を見ると、目が合い、その瞬間にお父さんの気持ちが私の心に流れてきた。  

「お前は、俺みたいになるなよ。お父さんは、こうやって育てられたから仕方なかったんだ。お前は、お前を縛り付けるような厳しい親も、否定してくる嫌な連中も、いないのだから。せめてお前には、好きなように生きてほしいから、あえて何も言わない。」  

それを聞いた途端、私は心が熱くなって、涙が出てきた。    

何も言わないお父さんを今まで馬鹿にしていた…何も言わないことに、意味があったのだ。それが、私に対する愛情でもあったのだと。 

それに、いるだけでこんなにも頼もしい父であったことに気づけた。  

わたしはいつしか、無口な父と、感情を出せない自分を重ねることで、遠回しに自分自身のことを馬鹿にしていたのだ。いつからか、そうなってしまっていたことに、今気づいた。自分で自分を押さえつけていたということを。  

私には、出せない感情などない、すべて表現していいのだ。  

父がそう言ってくれたように感じた。  

おじいちゃんとおばあちゃんは、父には厳しかった…そのおばあちゃんの記憶が突然よみがえってきた。

おばあちゃんは私に、  

「状況を見てから、ものを言いなさいね」  

と言ってすぐに消えた。  

手芸を教えてくれたり、優しく思えたおばあちゃんだったが、実際、息子である父にしたように、厳しいこともいつも言っていたことを思い出した。そういう人なのだ。  

そういえば、私の主人も、厳しいことを言う人で、  

「それは、自分のわがままでもあるんだよ」  

という言葉を思い出していた。  

いつも、仕事の話を聞いてくれる主人だが、だいたいいつもこう言うのだ。主人は、私は信頼している人であり、親友であり、唯一心を許すそれでいて、こころから尊敬している人。    

この人の言うことなら、私は信頼を第一に考えられる。

”主人は、言うことはスケールが大きくて、いつも俯瞰的(ふかんてき)でいて、それでいてプライドが高かったりする。私が生涯、そんな主人のために一生を捧げることはごく当たり前のことであり、それでいて、私はこの人の魅力に引き付けられ、いつも夢中でいます”  

そんな主人に、また、今世でも認められるような、愛おしく思える自分でありたいと、今はそう思えるように、なっていた。  

父からは、私は自分の主張をしていいのだと気づかされたこと、前世では、私は確かに才能を認められていて、存分に仕事をしてこられたこと、中学のあの教室の出来事は、わたしの強いやる気がまだ心の奥底に残っていることを、改めて感じることになった。  

臆することはないのだ、と思えるようになっていた。